秀吉の道の由来

2013.03.06 文章を一部訂正しました。
1587年(天正15年)春、関白秀吉は島津征伐のため九州に入った。4月27日に出水に入り、約20万の兵を率いて高尾野・阿久根へ。 5月3日には川内の泰平寺に本陣を構えた。弟の秀長は福岡から二手に分かれ、豊後から日向へと南下した。
戦況の不利を考えた薩摩国主・島津義久は5月8日、秀吉に拝謁(はいえつ)し、一応の決着がつく。しかし、宮之城の島津歳久や大口の新納忠元に服従の兆しがみられないため、秀吉は川内川の左岸を北上し、 20日に山崎城へ入り、22日には鶴田の太閤陣(鳶の巣)に陣を置いた。太閤陣には25日まで滞在しており、ここで飯野の島津義弘が秀吉に拝謁した。
秀吉は義弘に大隅国を、その子久保に日向を与えた。そしていよいよ26日に、曽木天堂ヶ尾(関白陣)へ陣を張る。
秀吉の命を受けた石田三成・伊集院忠棟(島津の家老)は、24日新納忠元に接触する。義久からの降伏の命を受けた忠元は、26日の夕暮れに天堂ケ尾で秀吉に拝謁し、決着となった。 関白陣に一泊した秀吉軍は、翌27日に針牟田、堂崎、鳥巣、園田、山野(尾上関白陣)へと進み、小川内から亀嶺峠を越えて水俣城へ入った。
秀吉の軌跡・・・泰平寺を本陣としたあとは平佐城に泊まり、山崎城やさつま町の太閤ヶ岡、鶴田太閤陣(鳶の巣)に陣を張り、抵抗する忠元の大口城が眼下に見える曽木天堂ヶ尾に最後の陣を張った。 秀吉はこの陣に一泊したが、秀吉が宿泊した城や陣跡で発掘調査が行われたのはこの曽木関白陣だけである。
忠元と26日に会見した際、忠元の立派な髭を見て、秀吉が「鼻のあたりに松虫ぞ鳴く」と詠むと、すかさず忠元が「上髭をチンチロリンと捻り上げ」と即詠した。 (細川幽細説では鈴虫)
当時、秀吉が通った道は、松の大木の並木道となっていたが、太平洋戦争の造船用に徴用され、その姿を消した。
数年前、原口宗雄、丸目親行(故人)両氏が、松の切り株を手掛かりに調査し、その後、大口市教育委員会、土木事務所も調査に参加し、経路が明らかになった。
現在、三好産業の横にある「秀吉之道」碑は、原口宗雄氏の同級生(昭和11年曽木小学校卒業)の方々により、平成6年に建立された。
この秀吉の道で、平成21年9月26日に映画「半次郎」のロケがあり、針持から15名の方々がエキストラで出演した。
※参考資料(大口市郷土史等)
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